220928_wed_晴れのち雨

昨夜から朝にかけての記憶があまりない。とにかく生理痛が重かったこと、そのためにイブを過剰に摂取していたこと、それから眠ることができなくて睡眠導入剤を多めに飲んでしまったこと。この二行くらいの文章は、通っているメンタルクリニックやカウンセリングで話したら怒られる文章で、自分でも体に悪いことは十分自覚している。体も心も、痛みが限界なのかもしれない。あらゆる痛みを鈍らせるために、夜を過ごしている。先月くらいにetc.bookshopで『薬を食う女たち』を買ったにも関わらず、最初の数ページしか読んでいないから。

 

起きて、シャワーを浴びて恥ずかしさのあまり叫んだ。私にとってシャワーの時間は、一番頭のなかが整理され、アイディアも沸き、なにより自分の行動のおかしい部分に気づく時間。(洗い物をしている時間も同じくで、水を触っていることにはそういう効果があるのだと思っている)

 

昨夜、なぜかこの日記をはてなブログに転載して、twitterにも載せた。毎日の分ではなく、公開する用に分けて。なぜこんなことをしたんだろう。寂しい気持ちが募ったのだろうか。

昔、中学〜高校にかけては、特にブログやホームページ作りで、すべてではなくても一部分でも共有できる人との出会いを求めていた。その時に出会った友人たちは、今でも連絡をとりあっている。

いまも、そういう精神なのだとおもう。言葉や形にしきれない思いを共有できる場所を探している。10代の頃から、やっていることが変わらないことに驚く。

 

生理もどんどん重くなるし、憂鬱な気持ちにになりながら仕事へ向かった。途中、もうなくなってしまったナプキンを買う。生理用ナプキンというのは、あらゆる買い物袋が有料になったなかでも、いまだに紙袋は無料でつけてくれるお店が多い。わたしは断るようにしている。10代や20代の後半くらいまでは、ナプキンの存在は「恥ずかしいもの」として何も考えずにその概念をもっていたけれど、段々と、自分自身は「恥ずかしい」と思っていないことに気づいたから。薬局で買い、荷物が多ければ買い物袋からもはみ出すし、透明の袋からも透けてみえる。これでいい。私は私で、当たり前のものとして持っている、それがいい。もしかしたら、周りに気まずいと感じる人がいるかもしれないけれど、その気まずさはその人のもの、わたしの意識はわたしのものとして生活していけたら。

 

日中、RRCのikmさんがフェアで展開するためのトートバッグの納品にきてくださった。少しゆっくり、展開している本のことについて教えてもらう。それから、わたしがたまにストーリーズで声に出してつぶやいていることを、褒めてもらった。わたしも気に入っていたけれど、誰かに言及してもらうのは初めてで、とてもうれしかったのでさっき早速やってみた。久しぶりだった。最近、自分の

声はかわいいとおもっていたのだけど、そのストーリーズを再生したらかわいくなかった。あれは、イベントのアナウンスで、文章を読み上げるときの声がいいだけだったと気づく。フリートークは下手すぎる。

 

明日は数週間ぶりに母に会う。どうやら歯の調子が悪いようで、落ち込んでいた。母の体調が悪いと、私の注意が行き届かなかったからだ、と落ち込む。同じように、父の癌も、祖母の骨折も、そして二人がそれを原因に亡くなったことも、自分が家族の健康を気にかけていなかったからだと、ずっと後悔が消えない。苦しい。いつも母が大病になることがこわい。母が元気なうちに、お金を稼ぎたい、孫の顔をみせたい、母にとっての幸せを私が決めることがおかしいのはわかっているけれど、もう毎日焦っている。